【幸福の必須要件】表現の自由の重要性をミル『自由論』にみる

「意見の自由と意見を表明する自由は、人類の精神的幸福にとって必要である。」

そう言い切ったのは、19世紀のイギリスの経済学者・思想家であるジョン・スチュアート・ミル。彼は、代表作である『自由論』で、表現の自由について語っています。

この記事では、「表現の自由が幸福の必須要件な理由」を説明していきます!

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表現の自由が重要な理由は4つ

人は無謬ではない

ある意見が沈黙を強いられているとしても、その意見は、もしかすると真理であるかもしれない。これを否定することは、われわれ自身の無謬性を想定することである。

J.S.ミル著、関口正司訳、『自由論』、岩波書店、p.119

ある少数意見が「真理である可能性」を完全に否定することは不可能です。
なぜなら、人は無謬ではないから。どんな人でも誤りを犯すことを前提に考える必要があるんです。

例えば、コペルニクスが地動説を唱えたとき、世間は「なに言ってんだこいつクレイジーだぜ、地球の周りを星が回ってるに決まってるじゃないか」と思ったわけです。多数派が「絶対に天動説だし!」と主張し、反対意見を抑え込んでいたら私たちは今でも天動説を信じていたかもしれません。

人は誤りを犯すから、表現の自由が重要なんです。
反対意見が真理である可能性はいつだって否定できません。

両者に真理の一部が含まれている可能性

沈黙させられている意見は誤っているとしても、真理の一部を含んでいるかもしれないし、そうであるのがごくふつうのことである。また、広く受け容れられている意見や支配的な意見は、どんな問題に関する意見であっても、真理の全体であることはまれであり、まったくそうでないこともある。したがって、真理の残りの部分を補う可能性を与えるのは、対立する意見の衝突だけである。

J.S.ミル著、関口正司訳、『自由論』、岩波書店、p.119

あなたの意見も反対意見も「どちらも真理の一部を含んでいる」可能性も考える必要があります。

表現の自由を否定し反対意見を抑え込んでしまうと、反対意見に含まれる真理の一部を失ってしまうことになります。真理を追い求めるなら「自分の意見が真理のすベてを含んでいる」という考えを捨てなければなりません。

例えば、2020年の世界中の関心の的である新型コロナウイルスの対処について。大きく分けると「経済活動が大事だ」という意見と「感染予防が最優先だ」という意見の対立があります。どちらも真理の一部を含んでいて、どちらか一方が完全に真理、と言い切ることは難しいですよね。

表現の自由を与えることで、自分の意見に含まれていない真理の一部を反対意見から補えます。

言われて信じてるだけでは「信奉」

たとえ、受け入れられている意見が真理であるばかりでなく、真理の全体であったとしても、活発で熱心な論争が許されず、実際にも、そのように論争されていなければ、その意見を受け容れているほとんどの人々は、意見の合理的な根拠を理解したり感じとったりすることが少しもないまま、偏見の形でその意見を信奉することになるだろう。

J.S.ミル著、関口正司訳、『自由論』、岩波書店、p.120

ここで、「反論の機会がなければ、意見はただの “信奉” に成り果てる!」というミルらしい鋭い考察が出てきます。

自分の意見が正しいものであっても、主張する機会がなければその意見が「なぜ正しいのか」根拠を感じとれなくなってしまいます。自分の意見の根拠が「親や先生に言われたから」というだけでは、それは「意見」ではなくただの「信奉」です。

例えば、「たばこは悪」と言われて育ってきた人がいるとします。子どもの頃は議論の機会が与えられなかったから、親から言われたことを「信奉」しただけ。大人になって喫煙者に「たばこは悪」な理由を説明できるようになって、やっと「信奉」が「意見」に変わるんです。

表現の自由がなく反論の機会が与えられないことで、意見の正当性を主張せずただ受け入れていると、意見はただの「信奉」に成り果ててしまうということです。

実感されない意見は生き生きしない

主張の意味のそのものが失われたり弱まったりして、性格や行為に対する生き生きとした影響力を失う危険が出てくるだろう。教義はたんなる形式的な口先だけの言葉になり、よいことのためには役に立たず、むしろ地面をふさぐだけで、実感のこもった本物の確信が理性や個人的経験から成長していくのを妨げることになる。

J.S.ミル著、関口正司訳、『自由論』、岩波書店、p.120

反論の機会が与えられないと「主張が生き生きしなくなる」という、これまた鋭い考察です。

口先だけの言葉は、人の性格や行動に影響を与えません。
「信奉」ではなく「意見」でないと、主張は生き生きしなくなり、意味を為さなくなるとミルは述べています。

例えば、映画や本には「人生についての名言」が溢れていますよね。
知ってはいるし、「まあそうなんだろうな」と同意はする。
でも、本当にその映画や本で言っていたことを実感し、心にしみるのは「辛い経験をしたとき」や「反論されたとき」ではないでしょうか。

意見の本当の意味を実感し、自分の性格や行動に反映させるためには、なにか実体験に基づくきっかけが必要なんです。
表現の自由によって、反論する機会がなくなってしまうと、その「実体験」がなくなり意見が生き生きしなくなってしまいます。

私の考察「思考停止は敵」

「当たり前」は移り変わる

これまでに紹介したミルの4つの主張のうち、私に一番刺さったのが「言われて信じるだけでは信奉」ということ。主張の根拠や合理性を自分で理解していないと、それは意見ではなく信奉なんです。
そんな「信奉」だけで人生を決めたくないな、と思います。

「同じ土地に住み続ける」「大学に行く」「就活する」「毎日髪の毛を洗う」

小さなことから大きなことまで、周りがやってるからやってるだけで、改めて根拠を説明できないものは意外とたくさんあります。

世間で「当たり前」な意見なんて、時代と共に移り変わる曖昧なものです。働き方の当たり前も、性別の当たり前も、どんどん変わってきています。そんな曖昧な「信奉」に操られて自分の人生を決めたくない。

世間の「当たり前」が変わっても「自分の意見の根拠」をはっきりと言えるくらい考え抜いて選択したい。生き生きとした意見を持っていたいなと思ったんです。そのためには思考し続けたいし、凝り固まった意見にならないためにも、いろんな価値観の人に出会いたい。

「自分探しの旅」の意味

昔、「自分探しの旅」で海外に行く人に対して「“自分” は海外に落ちてないよ(嘲笑)」というコメントを見て、モヤモヤしたことがあります。そのときのモヤモヤの答えが、ミルのいう表現の自由について学んだ今、やっと分かったかもしれません。

海外に行って「自分を見つける」という考えは、理にかなってると思うんです。

周りの「当たり前」に流されてただ生きていると、自分を簡単に見失ってしまう。「私ってなんだろう。どんな人生を歩みたいんだろう。」と迷走しがちだと思うんです。

悩んだ末、海外へ「自分探しの旅」に出る。そして、行った先の海外で、様々な価値観や文化と出会い、やっと「反論の機会」や「欠けていた真理の一部」を得られる。

自分の意見を生き生きとさせて意味を持たせるには、自分の意見と対比するなにかが必要なんです。海外に行けば手っ取り早く自分と違う人と出会えて、「自分を見つけられる」。

「自分探しの旅」は、自分と違う意見の人に会って自分の意見を再確認する旅なのかもしれません。

おわりに:人類の精神的幸福にとって必要なもの

ミルは「意見の自由と意見を表明する自由は、人類の精神的幸福にとって必要である。」とはっきり述べています。「人類の他の幸福もこれらの自由に左右される」とさえ言っているんです。

自分が少数派のときも、多数派のときも、表現の自由は「精神的幸福」にとってとても大切。

自分の意見を生き生きさせ、意味を持たせるためには反対意見が必要です。
「精神的幸福」を追い求めるためには多様性が大事なのかもしれません。

▼今回参考にした『自由論』の最新の訳書はこちら(2020年3月出版)

古典なので原文はかなり難しくて読みにくいですが、この訳書は読みやすくておすすめです!

〜この記事を書いた人〜
きこ

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